押し入れに引き出し

PCの起動を習慣化することを目標に掲げています

これもたぶん外国語に翻訳するとそれなりの文章に見える

読めない言葉とは何故あんなにも魅力的なんだろう?
以前韓国が発祥の漫画にハマり、それはもう夢中になって読んでいた。私は母国語以外がサッパリなのだがありがたいことに日本語訳版があったので、そちらを追っていた。
最終話まで読み終えた時、私の心は静かに震え、この気持ちを誰かと共有したいと思った。手始めにツイッターにて思いつく限りの単語を組み合わせて検索したが、それらしいツイートは数件しか見つからなかった。どうやら私が予想していたより日本の読者は少なかったらしい。他人の影響で作品への自身の評価は変えられてはならないと思っているし、自分が影響を受けやすい人間だということも理解しているが、それでも好きな作品に対する他者の感想を知りたい。そういう気持ちを常々抱いている私は、全然感想が見つからない事実にへこんだ。別に私が描いた訳じゃないのに。
悲しい気持ちになりながらツイッター以外でも検索をかけ続け、その作品の英語版のタイトルなどで検索していた。すると努力の甲斐あってか色んな作品の感想が集まったよく分からん英語のサイトに辿り着き、そこに件の作品の感想も寄せられていた。
心象風景には餌待ちのよだれを垂らした犬が浮かび上がっていた。心象風景ってたぶんそういうことじゃないけど気にしない。
他人の感想に飢えた私にとってその英文テキストはまさに垂涎ものの財宝と等しく、噛み締めながら訳していった。
書かれていた内容を一つ挙げると「主人公の両親は彼を精神科に連れて行くべきだった(;_;)」という短いものだったが、私は何故かその感想に共鳴して「それな〜マジそれな〜(;_;)」と頷きながら泣きそうになってしまった。
なんで?
たぶん日本語で同じ感想を見たら普通に目が滑っちゃうレベルで当然のことを述べているに過ぎないのだが、めちゃくちゃ省察に富んだ感想に見えた。
これと同じ現象は二次創作にも言えて、英語なり中国語なり、読むのにつかえてしまう若しくは意味が分かりそうでその実全然理解出来ない言語で書かれた作品は、素晴らしい解釈が繰り広げられているものだと錯覚してしまう。実際に内容を理解して、過大評価だったと判明したとしても、なんだか価値が高いもののように感じる錯覚は解けない。
自分の理解の範疇を良い塩梅に超えているものを、実際の価値よりも高く見積もってしまう傾向が私にはあるようだ。理解出来るか否かの要素は割と何でも良くて、上で述べている言語しかり、人が話したり書いたりしている内容しかり、とにかく「ちょっと分かり辛い」部分があると無条件にすごい!!と思ってしまうし惹かれてしまう。
これが極端に解読不能(例えばヒンドゥー語とか)な内容であれば興味さえ抱かないので、分からなそうでギリギリ分かる気がするラインを踏んでることが重要である。
ところで、教師に恋しちゃう学生って、皆このメカニズムによって惹かれてるんじゃなかろうか?人には『分かるような分からないようなもの』に強く惹かれる性質が備わってるんじゃないか?それ即ち授業や講義であり、日々その必殺技を繰り出されている学生たちは当然(一部の)先生に夢中になっちゃうんじゃないか?
突き詰めたら人間の根源的な何かが分かるような気がするが、飽きてきたし、私個人だけの話だったらこれ以上考えたところで虚しさが募ってくるので、寝ます。